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お客様の声

お父さまがお米の卸売業だった工藤さん:東京都

私の父は、米の卸の仕事をしていましたし、母も子供のころ、かまどで炊いたご飯を食べていたため、我が家は米にうるさい家庭なんですが、「さっぱりした、ツヤのある、おいしいお米だ」とみんなで美味しくたべました。父が仕事を辞めてから、スーパーでお米を買うようになっておいしいお米が食べられなくなっていたのですが、久しぶりに、本当のお米を食べることができた気がします。残ったお米は、翌日まで14時間保温してみましたが、翌日になってもツヤが残っていて、こんなお米は初めてでした。冷めてもおいしいので、お弁当にいいと思います(贅沢かな?)。
あと、父が言うには、すごく丁寧に精米しているとのこと。精米が丁寧でしっかり行われていると、ツヤがよくなるといっていました。母もお米を研ぐときに、「触った感触がちがう」といっていました。私も実際に研いでみましたが、今までのお米と感触が違っていて、触った感触、炊き上がったときのお米のツヤに、精米の丁寧さを感じとることができました。

岡田さん:東京都

もっちりした軟らかめの炊き上がり。味・香り、当然よし。
友人にも食べてもらったところ、思わず一言。『こんなの食べちゃったら、ふつうのお米は食べられなくなっちゃいますね』。すかさず『贅沢だと思うかもしれないけど、これでご飯一杯の差はたかだか30〜40円よ。おかずの贅沢に較べたら贅沢のうちに入らないでしょ』と突っ込みを入れる私。納豆をかけたり、卵をかけたりするのがもったいないぐらいの食感と味だったので“独立ごはん”として食べました。

原さん:神奈川県

同梱されていた炊き方のコツの説明通り炊きました。真っ白でつやがあって、見た目からして違うな!と印象を受けました。食べてみてびっくり!とても甘く、今まで食べていたお米とは違いが歴然でした。こんなに違うとは正直思いませんでした。おかゆにしてみましたが、こちらも、とても甘く大変おいしかったです。普通、おかゆは梅干や昆布と食べるですが、全然そんなものいらないって感じで、おかゆだけでおいしく頂きました。

明治記念館 元総料理長 吉澤 様

疎開先の思い出「銀しゃりの味」

 何時でもふっと思い出すことがある。その時の情景、しぐさまでもが重なって、わけも無く浮かんでくる。戦争が激しくなった昭和18年、東京の銀座から神奈川県の葉山に疎開した時のことです。戦時のことで軍隊や軍事工場に動員された農家に田植えの頃と稲刈りの時期に小学5年生徒が各クラスから班ごとに分かれて、お手伝いに行った時のことです。水の張られた田に足を入れるとすぐに蛭にかまれ、苗を1、2本植えるとまた蛭が吸い付く、口の形は金魚のようだけど色は黒っぽかったかな、掃っても、水を叩いても逃げないで、うようよいましたね。秋になり稲刈りの時にも同じ農家に行き、刈り取った稲を運んだり、脱穀機の周りに散った籾米を集めたりのお手伝いをしたことを今でもよく覚えています。そんなことよりも、大方の作業が終わった頃「はやく みんなおいで!」とおばさんに呼ばれて行くと、縁側に並んだ重箱に大きなおにぎりが盛られていました。「さあ、お食べ、一人一個ずつだよ」”あっ 銀しゃりだ”と思わず叫んだ。両手で抱えるほど大きかったし温かった。塩味だけだけどその美味しさったら本当にたまらなかった。戦時中、最初はタイや仏印から送られた外米入りのご飯は匂いがあって臭かったがまだ食べられるだけよかった。次には満州から送られた高粱入りのご飯、脂を抜かれた大豆入りご飯、お米の割が極端に少なかったので炊いてもパラパラのご飯だった。そんなご飯より、小麦を挽いて水だけで練った水団やカボチャ、サツマイモ等の代用食の方がよっぽどか美味しかった。そんな時でも秋の稲刈り時期になるときまったようにあの”おにぎり”を思い出します。まだ小学生の子供にとっては戦争のことより食べることの方がよっぽど重大事だったのでしょう。

総理大臣官邸厨房時代

昭和23年春、15歳の時、学校制度が変わり旧制中学3年で卒業をしました。総理大臣官邸の厨房に西洋料理の見習いとして入ることができ、料理人としての第一歩を踏み出したのです。料理はフランス料理ですが、米料理を付け合わせにした料理など色々とあり、鶏肉のクリーム煮ピラフ添えなどは当時はご飯を付け合わせにした料理はとても喜ばれました。スペイン風魚介類の炊き込みご飯パエリア、グラタンにしたドリア、生クリーム、バター、シュプレーム ソースを加えて混ぜたピラフを鶏の腹に詰め蒸し焼きにした料理、もっと一般的にライスコロッケなど、また 宮内庁主催の鴨猟が11月末頃から翌年の3月にかけて行われ皇室宮家の方々が各国大公使、要人方をご招待するのです。猟のあと午餐会が行われるのですが献立の中に鴨の「すき焼き」が有ります。すき焼きは銘々が小さい小判型の鉄板をつかい炭火で焼くのですが大根おろしと醤油で食べるのです。その時にクリオール風に炊いたご飯がサービスされます。作り方は米を軽い塩味のお湯で茹で、布を敷いた笊にあけ水を切る。平鍋にバターを塗り茹でた米を少量ずつ入れ平にならし、溶かしたバターを全体にまんべんなく垂らしかけます。3回ほど繰り返し蓋をしてオーブン(備長炭の火力による)で蒸し上げます。パラパラな状態でいて、しっとりと仕上ります。そのご飯に、シュープレームというクリームソースを添えて頂くのです。様々な料理に米は野菜の一種として使われますが脇役的な存在ですね。料理の他、現在では殆ど作られていませんが古典的な米を使ったデザートもあり結構守備範囲は広いのです。

様々な土地でのお米との出会い

イタリアはご承知の様にパスタ類、米料理の多い国で日本の西洋料理の方法とは少々違うのですがお米が好きな事は同じです。スイス、フランスに接した穀倉地帯ピエモンテ州がイタリア第一のお米の産地で(ピエモンテ米、ローマ米)州都は冬季オリンピックが行われたスキーのメッカ、トリノ。アルプスとその山脈から源を発する渓谷の豊かな水、積雪量が多いところなど自然環境が新潟と良く似ていますね。米作りについての知識は皆無ですがジャポニカ米は日本米タイプ、丸型で粘りある種。カリフォルニア米は日本の品種だそうで戦後すぐの日本米と変わらない味です。ハワイは日系人が多いのでどこのスーパーでも売られています。その他、英語で云うワイルドライスは北アメリカ原産のマコモ属の植物で温かい料理の添え物やサラダに私は使ったことがあります。米は日本にとっては勿論、世界でも小麦と共に最も大事な食糧となる穀物です。米の起源は、原産地は何処か、どんな経由で古代といわれる日本に渡ってきたのか興味のあることです。 5年前、家内の提案で熊本県阿蘇周から宮崎県高千穂近辺を巡るバス旅行をしました。ガイドさんの話の中で興味を引いたのが古代米の由来についての説明でした。米は紀元前2〜3世紀に琉球経由か朝鮮半島経由で中国から西日本、おそらく九州に伝わったとされていたが、近年遺跡の研究によりもっと古い時代に日本で栽培している事がわかってきたと。船もあったんだろうし、勿論、人間同士の交流、どんな言葉で話し合ったのかな?と「想像するだに驚きの他なし」ですね。そうか、神代の昔から日本人は米を作り、食べ生活してきた。そして米も人間の歴史と同じように長い年月の旅を重ね進化を続け今の米になったのかと思いつつバスに揺られていると、では、お話の古代米をお見せしましょう。ここに見本がありますから順番にまわしてご覧下さいと声がかかった。見れば色は赤黒く形は細め、ああこれなんだ、今も作られているのだなと思いながら・・。バスはゆっくりと高千穂峡へと向かった。 帰京後、しばらくして古代米を食する機会がありました。献立の中の(日本料理)一品に少量のご飯を使った料理「おしのぎ」があり、小さな塗りのお椀に盛られてサービスされました。料理長の説明があり此処では古代米といわれているが京都では赤米、黒米、または古代米ともいい岩手では紫雲米とも呼ばれている。どれが本当というよりブランド名と解釈してくださいとのこと。炊き方については、古代米はさっと水洗い(ごしごし洗うと色が剥げやすい)、少量の水に浸す。うるち米と餅米をあわせた米またはどちらかの米を選ぶ。古代米単独で炊くと粘りが無くパラパラになるので美味しく食べるにはうるち米や餅米の配合を色々と試しながら決め、じっくりと炊き、蒸らす。今の小豆を使ったお赤飯の原型とも考えられますとの事。もし古代米だけで炊いた物だったら、たとえ味や香りがなくともそれはそれ、古代の姿を遺したその米をじっくりと味わってみたいものだと思った。

塩沢こだわり米との出会い

平成16年3月22日 東京は日野市高幡からご縁があり越後湯沢に移り住むことになった。湯沢近辺はもう40年も前、若い頃からスキーや登山で様子がわかっていたし、全く知らない始めての土地に住むといった感覚ではなかった。1年を過ぎ秋の収穫も終わり新米が店先に並ぶ頃だったか知り合いの方から「若い人だけど、いい米をつくっている所があるよ」と教えられ訪ねて行く。岡田さんという方だ。若いがしっかりとした感じ。早速お米の話に入ったが質問も出せないほど密度のある説明にうなずくばかり。要約するとアグリワークスという名で米作りから販売まで産直というかたちで一貫して行こなっているという。米作りが機械化、体系化されコシヒカリをこれまで育んできた最適の環境である魚沼でも作り方や考え方によってできるお米は全然違うという。天然資材や堆肥を使った土作りや米ぬかや手取りによる除草、殺虫剤や殺菌剤は使用しない。人も、稲も他の生き物にとっても害にならない健康的思考で米作りをしているとのことだ。話が終わり真剣な表情が柔和な笑顔に変わった。その後、雪室貯蔵庫などの施設も案内して頂いた。聞くこと、見ることまったく大変な事だなと感心するばかりだった。 翌日の朝、もう何時かなと思いながらいつものようにカーテンを開ける。目の前の飯士山はまだもやっている。ぼんやりとした頭でドアを開けると何とも云えない柔らかで深みのあるあの匂いが湯気と一緒に部屋中狭しと広がっていた。家内が電気釜のふたを開け炊きあがったばかりのご飯をしゃもじで切り立てていたからだ。眠さもすっ飛び思わず深呼吸するほどに、今日から新米だ。それも南魚沼産、しかも塩沢の”こだわりコシヒカリ”だ。一膳目軽くよそって塩をふり、二膳目は邪道かもしれないがバターをご飯の上にのせ醤油をたらしてかき混ぜて食べた。味噌汁もおかずもいらない。只ひたすら食べるのみ。ふっとあの”銀しゃり”を思い出しながら・・・。アー うまい。